投稿

ラベル(京都市電)が付いた投稿を表示しています

寺町商店街にある京福電鉄(嵐電)の社章の話

イメージ
 京都随一の繁華街、寺町通の路地を曲がると、こんな小さな点検蓋があります。 点検蓋には渦を巻いたような菱形のマークが見られます。 このマークは 菱形雷文 と呼ばれ、嵐電の愛称で知られる京福電気鉄道の社章として使われているものです。 ↓こちら京福電気鉄道のホームページでも菱形雷文が確認できます。 京福電気鉄道株式会社 (keifuku.co.jp) この点検蓋があるのは三条寺町、すき焼きで有名な三嶋亭のすぐ裏です。場所的にも嵐電は全く関係なさそうな場所ですよね。なぜこんなところに菱形雷文の点検蓋があるのか。 三嶋亭の南側の路地を入ったところに件の点検蓋があります。 いや、そもそもこの蓋は本当に嵐電、京福電気鉄道のものなのでしょうか。 実はこの菱形雷文は元々、かつて京都に存在した電力会社、 京都電燈 の社章でした。 日本で四番目の電力会社、京都電燈 京都電燈は、1888年(明治21年)4月に創立されました。当初は会社敷地内で石炭による火力発電を行い、直流による近距離低圧配電を行います。 1890年(明治23年)に琵琶湖疏水が開通、翌91年には蹴上発電所が日本初の商用発電所として営業を開始します。 一方京都電燈は、蹴上発電所開業翌年の1892年(明治25年)蹴上発電所からの電力の供給を受けることを願い出、許可を受けます。これを機に自社の火力発電を廃止し、送電を低圧直流から高圧交流へ転換します。 蹴上発電所 テリトリーを福井へも拡大 京都電燈は安定した電力の供給先を確保するため、京都・福井の両府県で鉄道事業を開始します。 これによって開業したのが現在の えちぜん鉄道 、 叡山電鉄 、そして 嵐電 の路線たちです。 また、もう一つ残っているものとして1937年に竣工した新社屋があります。京都駅前、現在関西電力京都支社として使用されている建物がそれです。 旧京都電燈本社、現在の関西電力京都支社。 配電統制令、そして解体 時代が戦時下となると、国家がインフラを管理するようになっていきます。1941年(昭和16年)には配電統制令が発布され、京都電燈も解散することとなります。 その結果、京都電燈の配電部門は関西配電株式会社および北陸配電株式会社へ事業譲渡。発送電部門は日本発送電株式会社へ事業譲渡。電力関係はそれぞれ特殊法人に継承されます。 そして 鉄道事業は京福電気鉄道へ事業...

夕日の名所に行ったら京都市電の遺構に会った話

イメージ
金戒光明寺。平安神宮のある岡崎の少し北、黒谷と呼ばれる場所にある浄土宗のお寺です。 市民からは「黒谷さん」とも呼ばれるこのお寺。夕日が美しいことでも有名です。 境内の墓所からの眺めは素晴らしいものがあります。 京都市電の敷石 参道を歩いていくと、ある説明書きに目が行きます。 横にある親柱が、四条堀川にあったものだということ。 参道の石畳には市電廃止時に払い下げられた敷石が多数使用されている ということが書かれています。 書き方からして、全ての敷石が市電のものということでは無さそうですが、自分の足元を支えている石が嘗ては市電を支えていたと考えると不思議な気持ちになります。 夕暮れ時に沢山の人々を運んだ市電。そんな市電の敷石も、今はお寺の凛とした静けさの中です。 アフロ阿弥陀 話は変わってもう一つの金戒光明寺の名物、アフロ阿弥陀の話。 正式な名前は 五劫思惟阿弥陀仏(ごこうしゅいあみだぶつ)。 阿弥陀如来というと、極楽浄土へ導く仏様です。浄土宗では「南無阿弥陀仏」と唱えて、阿弥陀如来による極楽浄土への救済を願うわけですが、当の阿弥陀様もすべての衆生を救いたいと長い時間熟慮を重ねて仏となりました。 その長い時間とはどれくらいの時間かというのが五劫というやつで、一劫が「約2千km四方の大岩を100年に一度衣で一撫でし、その岩がなくなるよりも長い時間」というよくわからない長さです。五劫というのはその5倍ですから、途方もなく長い時間であるということだけはよくわかります。 阿弥陀様はあまりにも長い時間考え続けた結果、髪の毛がアフロみたいになってしまいました。その様子をとらえたのが 五劫思惟阿弥陀仏というわけです。 非常に珍しいタイプの仏像ですので、お立ち寄りの際は是非ご覧ください。 また、 仏像のある場所は個人のお墓の並ぶ墓地ですので、周りの方のご迷惑にならないようご配慮ください。

【京都の保存車2】平安神宮には日本最古の電車がある

イメージ
平安神宮内の日本庭園、神苑には現存日本最古の電車が保存されています。 保存されているのは狭軌1型の2号車。所謂N電。 広軌1型の全廃後、狭軌1型は改番されたのですが、 改番前はN52という車番でした。52番目の車両でありながら、より前に製造された車両が現存しておらず、現存最古の電車ということになります。 1868年(明治元年)、明治維新により東京へ遷都が行われ、京都では活気が失われつつありました。そんな中で産業の振興や近代化の機運が高まり、1890年には琵琶湖疏水の開通、翌年には蹴上発電所が完成、日本初の商用発電が始まります。 蹴上発電所 1895年(明治28年)に、この蹴上発電所が作り出す潤沢な電力を利用し、日本初の電車が 東洞院塩小路下ル -伏見下油掛間で開業。同年中に第四回内国勧業博覧会への会場アクセス線も開業、京都の近代化を大いにアピールする形になりました。 そのころから走っていたのがこの電車です。平安神宮自体が内国勧業博覧会の目玉事業として創建されましたから、この場所はこの車両にとっても縁の地ということになりましょう。 開業は2月1日のはずなんですが、この説明書きには一日早い1月31日と書かれています。 制作は梅鉢鉄工所と書かれています。南海高野線の浅香山駅近くにあった鉄工所で、後の帝國車輛、現在の総合車両製作所の源流です。 元々運転台は、腰壁のみのオープンデッキ型でしたが、後にこのようなベスチビュール型へ改造されました。梅小路公園や明治村のN電はオープンデッキに復元されていますから、こちらはこちらで貴重な姿です。 集電はもちろんトロリーポール。 疏水によって作られた電気はここから取っていたわけですね。 電車を見た後はそのまま平安神宮の神苑を見物。神苑は国の名勝にも指定される回遊式庭園で、社殿を取り囲むように配置されています。庭園の池を満たす水も琵琶湖疏水の恵みです。 電車を見るには拝観料大人600円、子供300円が必要です。

【京都の保存車1】平安神宮前の市電1800形

イメージ
岡崎公園内、平安神宮の前に京都市電の保存車があります。 車両は1800形の1860号で、 2015年までは大宮交通公園で保存されていた車です。 こちらでは市電コンシェルジュという名前で観光案内所として使われています。 1800形は、800形がワンマン改造されて誕生した形式です。 京都市電におけるワンマン車の証である、オレンジ色のラインが入っています。 ワンマン改造の際に、降車扉の中央移設、前照灯の二灯化等の改造も施されています。 車内はこのように観光パンフレット等が並べられています。 諸元と古い路線図。 KR-8直接制御器。直接制御のため、マスコンではありません。 外観のディテールも見てみましょう。 もう現役の車両では見ることができないビューゲル。元々トロリーポールだったのが改造されました。 ビューゲルを操作する紐とレトリーバー。 前面下部の救助網。こちらも現代の電車では見られない装備ですね。 こんな小さな網で人を受け止められるとは思わないんですが。 この車両を見た後は、平安神宮の神苑内にあるN電を見てきました。 そちらの様子は次回。 最後におまけ。 1915年(大正4年)に大正天皇の即位を記念して、大典記念京都博覧会が岡崎公園で開催されました。 その際に作られた電灯の台座が、保存車の近くに残されています。

市電廃線跡探訪-2 【堀川中立売から北野】

イメージ
前回の続き、市電堀川線の廃線跡を辿っていきます。 堀川中立売の橋台跡を訪れた後は、そのまま北野方面へ廃線跡を辿ってみました。 前回の鉄橋跡から中立売通を西へ進みます。 タイル張りのレトロな学校が見えてきました。京都市立正親(せいしん)小学校です。上京区のホームページによると、 昭和12年(1937年)の台風による大被害の後に大改築された建物だそうです。 また元々この小学校は、明治2年に番組小学校として開校した、日本で最も古い小学校のうちの一つのようです。番組小学校というものについても、日本の近代化に貢献した非常に興味深いシステムですので、是非調べてみてくださいね。 学校の前にはこんな碑が。平安宮大蔵省跡。 そして、秀吉が政治の中心として建造した城郭、聚楽第もここにあったそうです。 京都弁のレッスンのような説明文。おもしろいですね。 ここは聚楽第の西の端とのこと。 では東側は? こちらが東の端。これは気づかないですねー。 二つの碑は250m程、離れた位置にあります。 千本中立売からはアーケードに。 商店街のロゴマークは市電の絵。このあたりの方々の市電に対する愛着を伺い知れます。 歩道にはレリーフも。 七本松通と交差するところに広場を発見。 市電のモニュメント。 この広場には他にもいろいろあるみたい。 さらに進むと京都こども文化会館が見えてきます。ここがちょうど北野車庫があった場所です。 会館前の壁面には市電や山鉾を象ったレリーフ達。 一条通と分岐する交差点。市電は右へカーブして行きます。 すると正面に北野天満宮の鳥居が見えてきます。交差点の手前に終点の北野停留所があったようです。もともとは、今出川通を渡った鳥居のすぐそばに停留所があったそうですが、1957年に今出川線の敷設のため、交差点の手前に移設されました。