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【京都の保存車1】平安神宮前の市電1800形

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岡崎公園内、平安神宮の前に京都市電の保存車があります。 車両は1800形の1860号で、 2015年までは大宮交通公園で保存されていた車です。 こちらでは市電コンシェルジュという名前で観光案内所として使われています。 1800形は、800形がワンマン改造されて誕生した形式です。 京都市電におけるワンマン車の証である、オレンジ色のラインが入っています。 ワンマン改造の際に、降車扉の中央移設、前照灯の二灯化等の改造も施されています。 車内はこのように観光パンフレット等が並べられています。 諸元と古い路線図。 KR-8直接制御器。直接制御のため、マスコンではありません。 外観のディテールも見てみましょう。 もう現役の車両では見ることができないビューゲル。元々トロリーポールだったのが改造されました。 ビューゲルを操作する紐とレトリーバー。 前面下部の救助網。こちらも現代の電車では見られない装備ですね。 こんな小さな網で人を受け止められるとは思わないんですが。 この車両を見た後は、平安神宮の神苑内にあるN電を見てきました。 そちらの様子は次回。 最後におまけ。 1915年(大正4年)に大正天皇の即位を記念して、大典記念京都博覧会が岡崎公園で開催されました。 その際に作られた電灯の台座が、保存車の近くに残されています。

市電廃線跡探訪-2 【堀川中立売から北野】

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前回の続き、市電堀川線の廃線跡を辿っていきます。 堀川中立売の橋台跡を訪れた後は、そのまま北野方面へ廃線跡を辿ってみました。 前回の鉄橋跡から中立売通を西へ進みます。 タイル張りのレトロな学校が見えてきました。京都市立正親(せいしん)小学校です。上京区のホームページによると、 昭和12年(1937年)の台風による大被害の後に大改築された建物だそうです。 また元々この小学校は、明治2年に番組小学校として開校した、日本で最も古い小学校のうちの一つのようです。番組小学校というものについても、日本の近代化に貢献した非常に興味深いシステムですので、是非調べてみてくださいね。 学校の前にはこんな碑が。平安宮大蔵省跡。 そして、秀吉が政治の中心として建造した城郭、聚楽第もここにあったそうです。 京都弁のレッスンのような説明文。おもしろいですね。 ここは聚楽第の西の端とのこと。 では東側は? こちらが東の端。これは気づかないですねー。 二つの碑は250m程、離れた位置にあります。 千本中立売からはアーケードに。 商店街のロゴマークは市電の絵。このあたりの方々の市電に対する愛着を伺い知れます。 歩道にはレリーフも。 七本松通と交差するところに広場を発見。 市電のモニュメント。 この広場には他にもいろいろあるみたい。 さらに進むと京都こども文化会館が見えてきます。ここがちょうど北野車庫があった場所です。 会館前の壁面には市電や山鉾を象ったレリーフ達。 一条通と分岐する交差点。市電は右へカーブして行きます。 すると正面に北野天満宮の鳥居が見えてきます。交差点の手前に終点の北野停留所があったようです。もともとは、今出川通を渡った鳥居のすぐそばに停留所があったそうですが、1957年に今出川線の敷設のため、交差点の手前に移設されました。

市電廃線跡探訪-1 【堀川線の橋台】

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京都市電堀川線の橋台が残る堀川中立売に行ってきました。 1895年(明治28年)、日本初の路面電車、伏見線の開業から7か月後にこの堀川線は開業しました。当時は京都電気鉄道(京電)という私鉄で、1918年(大正7年)に京都市に買収され、市電となりました。 京電が敷設した路線は、軌間1067mmの狭軌で開業しましたが、京都市に買収されて以降は他の市電の路線と同じ1435mmの標準軌に改軌されていきました。 しかし、この堀川線は改軌、延伸の計画が昭和恐慌と戦時体制の影響で凍結され、廃止される1961年まで狭軌のまま運行され続けました。 博物館明治村で動態保存されている狭軌1形 明治生まれのこんなレトロな車両が堀川に沿って走る、非常に趣のある路線だったんですね。 一方堀川はというと、かつては運河として、また友禅染を晒すのに使われたりと、生活と密接な関係のある川でしたが、戦後は上下水道の整備により水の流れはほとんど無くなってしまったそうです。 しかし、2009年には導水路や親水護岸の整備が行われ、堀川に水の流れが復活すると共に、市民の新たな憩いの場となりました。 そんな憩いの場に堂々鎮座するレンガの構造物。これが本日の本題、市電堀川線の橋台跡です。これは東側。 こっちは西側です。市電は斜めに堀川を渡っていましたので、両橋台は南北にずれた位置にあります。 北側には人道橋、コンクリートのアーチ橋、石造アーチの堀川第一橋が並びます。 それぞれの位置関係を図にしてみました。 最初は単線で開業し、堀川沿いを走る堀川線と中立売通を走る北野線が、転車台を介して直角に接続していたそうです。その後、1908年に直通化と複線化が成され、堀川を斜めに渡るルートに変更されました。 コンクリートアーチ橋の下にある単線時代の橋台はこんな感じ。こちらは東側。この アーチ橋自体は市電のものではなさそうですね 。 フレアがひどくてすいません... 反対側(西側)は複線化後の橋台と一体化しています。 ここを見た後は、堀川線の廃線跡を北野まで辿ってみました。その様子はまた次回。