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西向日駅の歴史 新京阪、名古屋への夢 

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  前回の記事 では、新京阪鉄道が開発した西向日駅前の住宅地について紹介しました。 今回は、新京阪鉄道が実は名古屋を目指していたこと、そしてその夢の路線が西向日駅から延びようとしていたことについてお話します。 名古屋急行電鉄 京阪電鉄は線形の優れた新京阪線(現在の阪急京都線)から分岐し、名古屋へ直通する路線を計画します。計画実現の為名古屋急行電鉄が設立され大津-名古屋間の免許が申請されます。 気になるルートですが、1928年6月12日と1929年3月1日の二度免許の申請がされており、それぞれルートが異なります。 1928年6月12日申請時 石山、平野、大鳥居、雲井、磯尾、池田、鳥居野、岩室、土山、山中、原、大久保、小古曽、日永、四日市、富田、柿村、桑名、汰上、長島、弥富、大井、蟹江、萬場、烏森、名古屋 1929年3月1日申請時 石山、草津、野洲、八日市、永源寺、員弁、佐屋、名古屋 28年のルートが比較的旧東海道に近いルートであるのに対し、29年のルートはより北側を通り、直線的に名古屋へ向かうルートであった事がわかります。 石山まではどうするつもりだった? 最初に免許が申請された1928年は、1月16日に天神橋(現在の天神橋筋六丁目)-高槻町(現在の高槻市)間が開業し、11月1日に高槻町-京都西院間が開業しています。 一方で、7月2日には、西向日町(現在の西向日)-山科間の免許を申請、11月6日には免許を取得しています。 また前年の27年には、京阪が六地蔵-石山間の六地蔵線の免許を取得しており、この二つの路線を介して、新京阪線と名古屋急行を結ぶつもりであったようです。 現在の西向日駅はどうなっている? 西向日駅は2面2線の棒線駅ですが、開業当初より将来的な2面4線の待避駅への改修も計画されていました。 京都河原町方面行ホーム その名残として、西向日駅のホームと敷地は大変広く作られており、これを見ると分岐駅として作り直す余裕もあるように見えます。 駅北側の道路から線路敷を覗いてみます。用地の幅が広くとられている事がお分かりいただけると思います。 皆さんも、車窓から見える西向日駅のやけに広いホームを見たら、新京阪鉄道の壮大な夢を思い出してあげてください。

新京阪鉄道が開発した住宅地 西向日住宅地

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 現在の阪急京都線は、元々京阪電鉄の子会社である新京阪鉄道の路線であったということは鉄道ファンの間ではそれなりに知られている事かと思いますが、新京阪鉄道が開発した西向日住宅地についてはご存じでしょうか。 西向日駅は昭和3年(1928年)に西向日町駅として開業しました。元々、向日町(現:向日市)に新京阪の駅は一つだけ作る予定であったようです。しかし、町内南北で誘致合戦が繰り広げられ、最終的には片方の駅に鉄道会社直営の住宅地を開発できることを条件に二つの駅が設置されることとなります。これが西向日町駅と東向日町駅であり、この条件の下約束された住宅地が今回のテーマである西向日住宅地です。 駅開業の翌年には駅東側の一面に広がる竹藪が切り開かれ、宅地の造成が始まります。 宅地は当時流行りの「田園都市」の考えを取り入れたもので、イギリスの住宅地を模したモダンなスタイルとなっています。 東口を出てすぐ。西向日住宅地の並木道が姿を現します。 田園都市というと、東急とその前身である田園都市株式会社による田園調布、多摩田園都市等が有名かと思います。これらのように田園という名前が入っていなくとも、田園都市のスタイルは各地の宅地開発で取り入れられました。 ただ、元々田園都市という言葉の元となるガーデンシティを提唱したエベネザー・ハワードは、都市への人口の集中による環境の悪化、遠距離通勤と物価の高騰などを憂い、職住が近接し、自然と共生した緑豊かな自立した都市を開発すべきとして、このガーデンシティを提唱しました。 しかし、日本において田園都市の目指すところは様々で、西向日住宅地のように専ら住宅地として開発され、近くに自然環境の残る閑静な郊外型住宅地として造られた場所が多いのが実情です。 西向日住宅地に話を戻して、街区の中心にはこの住宅地のシンボルである噴水広場があります。なかなかヨーロッパ的な光景ですね。 広場は最近注目されているラウンドアバウトになっています。 出たり止まったり。 噴水の水と並木の緑が、景観を無機質にするのを防いでいますね。 さらにもう少し西向日駅について探検しましたので、そちらはまた次回。