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【京都の保存車2】平安神宮には日本最古の電車がある

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平安神宮内の日本庭園、神苑には現存日本最古の電車が保存されています。 保存されているのは狭軌1型の2号車。所謂N電。 広軌1型の全廃後、狭軌1型は改番されたのですが、 改番前はN52という車番でした。52番目の車両でありながら、より前に製造された車両が現存しておらず、現存最古の電車ということになります。 1868年(明治元年)、明治維新により東京へ遷都が行われ、京都では活気が失われつつありました。そんな中で産業の振興や近代化の機運が高まり、1890年には琵琶湖疏水の開通、翌年には蹴上発電所が完成、日本初の商用発電が始まります。 蹴上発電所 1895年(明治28年)に、この蹴上発電所が作り出す潤沢な電力を利用し、日本初の電車が 東洞院塩小路下ル -伏見下油掛間で開業。同年中に第四回内国勧業博覧会への会場アクセス線も開業、京都の近代化を大いにアピールする形になりました。 そのころから走っていたのがこの電車です。平安神宮自体が内国勧業博覧会の目玉事業として創建されましたから、この場所はこの車両にとっても縁の地ということになりましょう。 開業は2月1日のはずなんですが、この説明書きには一日早い1月31日と書かれています。 制作は梅鉢鉄工所と書かれています。南海高野線の浅香山駅近くにあった鉄工所で、後の帝國車輛、現在の総合車両製作所の源流です。 元々運転台は、腰壁のみのオープンデッキ型でしたが、後にこのようなベスチビュール型へ改造されました。梅小路公園や明治村のN電はオープンデッキに復元されていますから、こちらはこちらで貴重な姿です。 集電はもちろんトロリーポール。 疏水によって作られた電気はここから取っていたわけですね。 電車を見た後はそのまま平安神宮の神苑を見物。神苑は国の名勝にも指定される回遊式庭園で、社殿を取り囲むように配置されています。庭園の池を満たす水も琵琶湖疏水の恵みです。 電車を見るには拝観料大人600円、子供300円が必要です。

市電廃線跡探訪-2 【堀川中立売から北野】

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前回の続き、市電堀川線の廃線跡を辿っていきます。 堀川中立売の橋台跡を訪れた後は、そのまま北野方面へ廃線跡を辿ってみました。 前回の鉄橋跡から中立売通を西へ進みます。 タイル張りのレトロな学校が見えてきました。京都市立正親(せいしん)小学校です。上京区のホームページによると、 昭和12年(1937年)の台風による大被害の後に大改築された建物だそうです。 また元々この小学校は、明治2年に番組小学校として開校した、日本で最も古い小学校のうちの一つのようです。番組小学校というものについても、日本の近代化に貢献した非常に興味深いシステムですので、是非調べてみてくださいね。 学校の前にはこんな碑が。平安宮大蔵省跡。 そして、秀吉が政治の中心として建造した城郭、聚楽第もここにあったそうです。 京都弁のレッスンのような説明文。おもしろいですね。 ここは聚楽第の西の端とのこと。 では東側は? こちらが東の端。これは気づかないですねー。 二つの碑は250m程、離れた位置にあります。 千本中立売からはアーケードに。 商店街のロゴマークは市電の絵。このあたりの方々の市電に対する愛着を伺い知れます。 歩道にはレリーフも。 七本松通と交差するところに広場を発見。 市電のモニュメント。 この広場には他にもいろいろあるみたい。 さらに進むと京都こども文化会館が見えてきます。ここがちょうど北野車庫があった場所です。 会館前の壁面には市電や山鉾を象ったレリーフ達。 一条通と分岐する交差点。市電は右へカーブして行きます。 すると正面に北野天満宮の鳥居が見えてきます。交差点の手前に終点の北野停留所があったようです。もともとは、今出川通を渡った鳥居のすぐそばに停留所があったそうですが、1957年に今出川線の敷設のため、交差点の手前に移設されました。

市電廃線跡探訪-1 【堀川線の橋台】

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京都市電堀川線の橋台が残る堀川中立売に行ってきました。 1895年(明治28年)、日本初の路面電車、伏見線の開業から7か月後にこの堀川線は開業しました。当時は京都電気鉄道(京電)という私鉄で、1918年(大正7年)に京都市に買収され、市電となりました。 京電が敷設した路線は、軌間1067mmの狭軌で開業しましたが、京都市に買収されて以降は他の市電の路線と同じ1435mmの標準軌に改軌されていきました。 しかし、この堀川線は改軌、延伸の計画が昭和恐慌と戦時体制の影響で凍結され、廃止される1961年まで狭軌のまま運行され続けました。 博物館明治村で動態保存されている狭軌1形 明治生まれのこんなレトロな車両が堀川に沿って走る、非常に趣のある路線だったんですね。 一方堀川はというと、かつては運河として、また友禅染を晒すのに使われたりと、生活と密接な関係のある川でしたが、戦後は上下水道の整備により水の流れはほとんど無くなってしまったそうです。 しかし、2009年には導水路や親水護岸の整備が行われ、堀川に水の流れが復活すると共に、市民の新たな憩いの場となりました。 そんな憩いの場に堂々鎮座するレンガの構造物。これが本日の本題、市電堀川線の橋台跡です。これは東側。 こっちは西側です。市電は斜めに堀川を渡っていましたので、両橋台は南北にずれた位置にあります。 北側には人道橋、コンクリートのアーチ橋、石造アーチの堀川第一橋が並びます。 それぞれの位置関係を図にしてみました。 最初は単線で開業し、堀川沿いを走る堀川線と中立売通を走る北野線が、転車台を介して直角に接続していたそうです。その後、1908年に直通化と複線化が成され、堀川を斜めに渡るルートに変更されました。 コンクリートアーチ橋の下にある単線時代の橋台はこんな感じ。こちらは東側。この アーチ橋自体は市電のものではなさそうですね 。 フレアがひどくてすいません... 反対側(西側)は複線化後の橋台と一体化しています。 ここを見た後は、堀川線の廃線跡を北野まで辿ってみました。その様子はまた次回。